誰がために宿題をするのかを問う

誰(た)がための宿題なのか。

 


子供と一緒に夏休みの自由研究(うどん作り)をしていた時、
ふと自分の学生時代を思い出しました。


小学生の頃はほんとうに夏休みの宿題が憂うつで、
毎年8月31日は泣いていました。


当時は計画性ゼロの本当にお馬鹿な子供で、
(って、今も変わりませんけど)


夏休みに入ったばかりの7月には、
『まだ先は長い。今は夏休みを満喫だ』
と言う考えで一切宿題には手を付けず、


8月頭には、
『まだ一ヶ月もあるじゃ〜ん。余裕余裕。』
と言う考えで一切宿題には手を付けず、


8月中旬には、
『宿題も大事だけど、これからだよね、夏休みは』
と言う考えで簡単な宿題くらいには手をつけ、


そして8月31日には、どうやったらこのボリュームを
一日で終わらせることができるのですか?
一日は24時間しかありませんよ、馬鹿ですか?
っていう状況に陥ります。
(以後6年繰り返す)

 


中学生になると流石に知恵が付いてきて、
『とにかくやればいいんでしょ?クオリティはさて置き』
っていうことがわかってきて、8月31日まで宿題を残す
と言うことは無くなってきました。


クオリティを度外視したスピード作戦。


例えば、読書感想文においては『本を読む』という
工程を省くという時短テクニックを駆使して
感想文を初日に完成させてみました。

 


え?
本読まずにどうやって感想文を書くかって?

 


それは、知っている話を書けば良いんですよ。

 


中学一年生の時は『桃太郎』。


中学二年生の時は『カチカチ山』。


中学三年生の時は『さるかに合戦』。


これなら読まずとも感想が書けるはずです。

 


けっこう思い違いをしている子供は多いのですが、
読書感想文ってあらすじを書くわけではなくて、
本を読んで自分がどう感じたのかっていう自分の
エモーショナルな部分にうったえる行為であるものなので
本の厚さには関係がないのですよね。

 


ですので、例えばさるかに合戦におけるサルの所業について


カニの立場からしたらどう考えるのか、


逆に敵討ちっていう名目面白半分にでサルをリンチした
ハチや栗やウスどんや牛の糞達はどんな気持ちだったのか、


それで命を失った(大怪我をした?)サルの子供や配偶者は
どんな思いだったのか、


そもそも牛の糞って感情あったっけ?っていう
多角的な視点から物語をみてみれば、
いろんな感想が書けちゃう訳なのです。
クオリティは置いといて。

 


夏休みの友(って今はあるのかな?)やドリルなどの
毎日書く系の宿題はやはり苦手で溜めちゃうんですが、
これもクオリティを無視してとにかく書く。


文脈が間違ってようが、漢字が間違ってようが、
計算が違っていようが、そもそも字が読めないと言われようが
とにかく埋める。


白紙でさえなければそこまで怒られないという経験から、
クオリティを無視して実を取る作戦を身につけ、
なんとか中学三年間を乗り越えたものでした。

 


そして高校生。


ここで身につけたテクニックは自分で言うのも何ですか
とても秀逸で本当は誰にも教えたくなかったのですが、
思い切って公開しちゃいます。

 

 


それは、

 

 


『なにもしない』。

 


やっとこの境地に至ったのです。
悟りの境地。

 


何故、勝手に決めつけられた宿題をやらなきゃいけないのか?
勝手に宿題を押し付けて、出来なければ怒られて。


勝手にお金を貸しといて返さないと暴力に訴える
闇金融みたいじゃないですか?
まあ、借りたことないですけど。


困るのは自分であって、そもそも先生に怒られる筋合いはないはず。

 

誰がために宿題をやってるんですか?って話。

サイボーグ009的に言えば。

 


まあ怒られてもたかだか数分の話だし。


その数分でこの40日間を買うと考えたら、

ずいぶんとコスパの良い話ではありませんか。


そんなことを思い付いて高校生時代は
全く宿題をしなかったことをふと思い出しました。

 

 


今、思い返すと、とんでもない子供だわな。

 


そりゃろくな大人にならないわ。←今ここ